クリスマスプレゼント


火曜日がクリスマスの次の日で冬休みに入ったため仕事の電車に乗らず、ブログを書き忘れたなあ。と気付いた金曜日です。

大晦日も迫り、日本の賑々しい歳末の雰囲気が懐かしい私ですが、クリスマス明けのブリュッセルは人通りも少なく、氷雨が降りしきる寂しさです。

もとはといえば、あまりに寂しく、寒すぎるこの季節に、何か気分が盛り上がるようなお祭りをやろうではないかということで、ちょうど良い感じでクリスマスが行事として定着したのだろうなあと思います。だってクリスマス飾りがなかったら本当に暗すぎるヨーロッパ。

私の教会でのイブとクリスマス当日のミサは、常連さん以外の人も大勢集まって、みんなでたくさんアイディアを盛り込んで典礼を準備して来ます。私は仏語2回と蘭語1回の計3回、別々の神父さん司式のミサを弾きましたが、譜面やコピーや注意書きが目の前にありすぎて何が何だか分からなくなり軽くパニックになった瞬間もありました。イブの教会の堂内では、幻想的な雰囲気の始まりから、鐘を鳴らし照明を明るくする後半の歓喜に満ちた歌声まで、クリスマスならではのミサが繰り広げられていたのだと思いますが、オルガン台では「次に弾くもの(それも半分は初見!なぜみんなギリギリに譜面を追加してくるのか)」の準備の連鎖でそれぞれ1時間半が終わるのが毎年のこと。オルガン台が会衆から離れた高いところにあるせいで、奏楽が大変な割に、みんなの盛り上がりを見て感じることができないのが残念ではあります。

イブの夜のミサの後、風が強いので自転車を降りて押しながら、扉を閉ざしショーウィンドウだけがキラキラ光っている商店街を娘と歩いていたら、ジングルベルの歌が聞こえて来ました。きらびやかな洋服屋さんの入り口が少し凹んで店に入り込んでいるような作りの場所に、お父さんお母さんと10歳ぐらいの娘の3人家族が、ダンボールと毛布で作った寝床に座って、ジングルベルを歌っているのです。

「物乞い」の人たちが大抵は悲しそうにしているのに比して、3人とも赤いサンタ帽をかぶり、生き生きと楽しげに歌っているのを見て、一瞬何を目撃しているのか分からないような衝撃を受けたのですが、よく見たら、ちゃんと音源が小さなスピーカーにつないであり、オケの伴奏が出ていて、カラオケというか、一種のきちんとしたショーになっているのでした(きちんとした?)。

通り過ぎながら、びっくりしたあまり、かなりじっと見つめてしまったのですが、通り過ぎたところでなんだか後ろ髪を引かれる思いがして立ち止まり。一人だったら絶対にお金を寄付しない(マダムぶっているみたいですごく嫌なので)自分なのですが、娘に「ね、少しお金あげようか?渡してくれないかな」と言うと「ママがあげたいんだから自分であげたら?」とやさしく拒まれたので(もっともな、大人な発言。)、クリスマスだし何をそんなに躊躇することがあろうか。と思いお金を財布から出しました。

一番小さい金額のお札を折りたたんで(それでもまだ何か恥ずかしい)、吹きすさぶ風で飛んでも困るなと、前に置いてある空き缶に入れずに、手渡ししようとしたら、真ん中で歌っていた女の子が小さな可愛い手をすっとこちらに伸べて来たので、いいのかな子供に渡して、と思った瞬間、いやこの人たちは毎日「3人で」物乞いをしてこの冬を過ごしているんだという実感が、急に心に降りて来ました。

シリアの紛争で難民となってブリュッセルに住み着くようになった人々の中には大勢の「中産階級」の家族がいるらしく、教会関係の団体が自宅に手分けして泊まってもらう運動をしている中で「ベルギーの家族は忙しくて朝8時には外に出ないといけないから住みたくない」とか、色々『難民ではあるがライフスタイルにうるさいという評判』が立っていて、想像ですが、この目の前の家族もごく普通の一家なんだけれども、「今だけ限定で」住む国がなくて、住む家もない、仕事も学校も戦火で無くなった。というように見えました。ジングルベルだって毎年歌っていたのでしょう。昨年はクリスマスを教会で祝った後パーティを家で催したのかもしれない。

不思議なほどの「別に難民じゃないし」感がこの寒空の道路のダンボールの前で胸を締め付けて来て、お金を渡して逃げ去ろうとしたら、お父さんが手まねで何か取るように仕草してくるのでよく見たら、お金入れのかんかんには、スティック型のアメが三つ四つ引っ掛けてあり、これを私がもらえる仕組みになっていたのです。

困っている人なのに、お返しをくれるなんて。。。

ここでもう私は声を出して、路上でわんわん泣いてしまいそうになりました。

そこにいる3人が、最初は(かわいそうな?典型的に貶められたが故に純粋な?)イエス様とマリアとジョゼフの聖家族のように見えたんだけれども、今は自分たち3人家族に見えた。プレゼントを頂いたら、もらいっぱなしではなくお返しをするという社会感覚、クリスマスなんだから楽しみたいという感性。

それぞれが、自分の役割を社会からもらって「偉そうな顔をして」生きていく人間の世界の「何かが完全に間違っている感」。社会なしに生きていけない人間が、今まで自分が信じていたことはなんだったのかと打ちのめされる瞬間の感情。社会に裏切られた時に何が起こるのか、見たくないから見てなかった真実。

それを一瞬で見せてくれたこの邂逅。

ニコニコしながらバイバーイと手を振ってくれるこの家族に、私は泣くのを抑えるのに必死で笑顔を向けることができませんでした。

クリスマス、綺麗ごとじゃない。。。

そんなクリスマスイブでした。

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(追記)

年とともに涙もろくなると言いますが。実に、娘はこの時泣くという私の感情に共感してくれずどちらかというとこういうのを平気でほっておくベルギーの国の政治に怒りを感じるという風情でしたが、家に帰って、イブのミサを同じく二回弾いてヘトヘトになっている夫にこの話を語ったところ彼も泣いてしまいました。泣いてる場合じゃないんだよ、と言ってくれる若い人たちにしっかりお願いしたい。私たちが作ってしまった社会だけど、これじゃダメだから、変えて、と。

(追追記)

あるいは、クリスマスなんだから、不幸な中でもお祝いしたい気持ちを我慢しなくていいかもしれない、というところを(多分子供の心を思う親心もあって?)突き抜けたこの3人の「信じる心」に打たれた体験だったのかもしれない。クリスマス、綺麗事じゃないだけじゃなく、深い。イエスの生誕の頃、既に社会、間違ってたからこそイエスが世に遣わされたんだった。


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